name = ナギ
住所 = 東京都
学年 = 高校生
意見 =
「高校は勉強したいから行く」という風には言われていますが、
僕の周りにはそういうひとが数えるほどしかいません。
みんな部活だの遊びだので勉強するという雰囲気ではありません。
課題提出の日には、それをやった人のものを皆で写す...。
僕は時間をかけてせっせと課題を終わらせていますが、クラスメートに軽々と写される...。
もちろんその人達が後で困るから別に良い、というふうに考えるのも良いことです。
しかし、僕はそのようには割り切れません。
僕は将来英語を使った仕事をしたいので、高校で留学したいと担任に相談したら、「そんなに成績の良くない人が行くし、君には残っていてもらいたい。」のようなことを言われました。
これは生徒を進学の道具と見ていることの表れではないでしょうか。
もちろん生徒全員をそう見ているわけではないでしょうが、
成績が良い生徒はそのように見ているのでは、と思いました。
日本の高校ではさまざまな科目を必修として学びますよね。
全ての教科をそつなくこなせる生徒には問題ないと思いますが、
最近、「数学や科学などを学んで何になるのか?」と思うようになりました。難しくなっているからやる気がなくなっているという、一種の逃げであるのは分かります。
しかし、興味もないような科目を2年も勉強するのは馬鹿げていると思います。
家族はそんなのは教養だから学べというのですが、では教養とは何なのでしょう。代数?遺伝?化学変化?
こういうような事があって、二学期からの登校が出来なくなるのでは、と思うようになりました。
ただの逃げでしょうか。でも、もうやる気がおきません...。
ナギさん
はじめまして
こんにちは
山本と申します。
メッセージ、拝見いたしました。
そうですね。
このお答えは私自身の私見でしかモノを言えない部分だと思いますので、変な事を書いちゃうかも知れません。
その所は考慮していただけると幸いです。
お答えは一つではないので。
ノートを、クラスの友達が気軽に写してしまうこと。
これは真面目に課題をこなした人は、頭にくる部分でもありますし、なんだか真面目に課題を取り組んだのが馬鹿らしい気持ちになる部分だと思います。
この部分、「高校は勉強したい人が行くもの」とはかけ離れているものだと思います。
ですが、高校は勉強だけに行くものでもありません。
遊び方もまた勉強だと考えています。
この人のノートや課題を写す行為もまた、社会に対する一つのアプローチの方法です。
あまりいい加減なのは厳罰ですが、社会の中で全てを真面目に正面から捉えられるものばかりではありません。
そのよくせ術というものの一環であると考えます。
でも、あんいに人の努力をナイガシロにするのはルール違反です。
正当な報酬は受け取らなくてはいけません。
それは人の道だと思います。
ギブ&テイクですね。
私自身もノートを写される部類の人間でしたが、自分のノートにコピーガード機能を入れてみたり、(コピー機では写せないくらい薄い字とか)していました。
写すのは良いけど、自分の力で写すこと、後、困った時に助けてもらう事、情報・遊びなどのテイクをもらっていました。
後、留学をしたいとのこと、もしそうでしたら、「遊び」もシッカリと遊んでおいた方がイイと思います。
私自身、留学をしましたが、「遊び」が役に立つ事がありました。
ゲームセンターのゲームの得意なことでも役に立ってます。
勉強は知識です。遊びは応用です。
学問の目線で遊びを見ているだけかも知れませんが、
アメリカでは、その応用力を問われました。
知識を使ってなにをするかです。
授業の効率的なサボり方も、知っているだけでも違います。
要は何を残して、何を切り捨てるかの選択をする立場になった時、役に立つと思います。
でも、さぼってばっかりではダメなんですけどね。
それは自分で自分を律する強い精神力があった上でのお話です。
もし、人に流されてしまうのでしたら、今は真面目にしておいた方がいいです。
でも、目線はノートを写している人が何を優先して取り組んでいるか、観察するのも一つの手です。
音楽かも知れませんし、もっと違うものかも知れません。
ですが、ただ漫然と遊んでいるだけではいけないですけどね。
後、遊び方です。遊び方一つで人の出会いが広がります。
その遊び方をみてみるのも、ナギさんのプラスになるかと思います。
後、数学や科学を学んでなんになるかですね。
そうですね。
数学で言えば、数学自体は意味は無いのです。
仕事に使う事はマレですから。
ですが、それで数学を勉強しないのは間違っています。
数学をする事の効能は、理論的思考の構築にあります。
英語でいうと英文法のようなものです。
その数学と言う英文法と言う全ての学問の基礎となります。
弁護士でも、文学部の学者でも数学的思考が基礎となります。
体系的に道筋にそった理論的な思考の構築に数学が必要なのです。
西洋にはラテン語というものがあります。
現代の社会にはラテン語そのものを話す人はいないのですが、
西洋ではラテン語を勉強します。
それはなんでかというと、論理的な思考の構築にラテン語が適しているからです。
ラテン語は数学と同じ効果を出すのです。
日本語とか日本の社会では、何となくと言うか、情緒が優位です。それはそれで大切な事なのですが、論理的な思考は苦手です。その訓練としての数学なのです。
では、科学はと言うと、科学については詳しくないのですが、
科学と言う社会基礎を今の社会は基盤にしています。
そのなれそめを知らないと、私達は科学に使われることになります。
哲学的な言い回しですが、私達が科学を使うのではなく、科学のために科学をしてしまうジレンマが生じてしまうのです。
科学はけして万能ではありませんが、科学は社会を豊かにしているのも確かです。でもその豊かさのために、人間としての何かを捨てているのも確かです。
その防止と、新たなるイノベーションのために科学は勉強をするのではないでしょうか?
数学と科学は決して表には出ませんが、全ての学問と思考の根底を創る一つだと思いますよ。また、それが教養だと思います。
大学での教授の受け売りも入っていますが、大体そんなところです。
もちろん、書いた事が全てではありませんので。
一つの考えでしかありません。
学校での「君には残っていてもらいたい」との学校の先生の言葉、私も気になりました。
これはナギさんの考えている通り、いい大学に入学すると高校の名が上がる。その為に言っているような気になってしまいます。
その「君には残っていてもらいたい」と言う根拠を知りたいですね。
ナギさん、どうでしょうか?
この場所で少しお話をしてみませんか?
今回は、私の私見でしか書いていません。
ナギさんも高校で留学をしたいとのこと、
英語を使った職業に付きたいとの目標があるとのことですが、
それは立派なことだと思います。
お心のエネルギーが不足しているように見えますので
少しお話をする事で、少しでもお心が軽くなればと思います。
もちろん、この場所以外でもOKです。
信用できるお友達や大人がいらっしゃればその方とお話を、何気ない話でもいいのでお話をして会話を楽しんでみてくださいね。
少しは違うと思います。
もしよかったら、メッセージ下さいね。
お待ちしております。
山本