大学生編

中学3年間不登校

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name = ネガティブ
分類 = 大学生・専門学生
タイトル = 中学3年間不登校
体験談 =

いじめ、というか僕自身の心が弱かったのか、僕は中学校に通うことができませんでした。正直、「学校に行かなかった」という傷から回復できるものではありません。今でもそれは変わりません、ふと振り向けばそういう過去をもった自分がいるのです。何回も死のうと思ったし、結局死ねない臆病者の自分がとても嫌でした。
しかし、そんな人間のくずみたいな僕でも「両親」の為に頑張るという目標ができてからは少しは前向きになりました。

name = とっきー
分類 = 大学生・専門学生
タイトル = 中学2年の3学期から高校1年まで不登校
体験談 =  不登校になった原因は特にありません。ある時急に学校に行くことがおっくうになって、3年生のときには半分以上欠席し、出席しても遅刻か早退を繰り返していました。そのころは親の存在が疎ましく、毎朝声をかけてくる母親のことを「お母さん」と呼ぶこともなくなりました。フリースクールに連れて行かれたときには、苛立ちを覚えました。ただ、外面のよかった私は納得したフリをして、フリースクールに通いました。

name = 零
分類 = 大学生・専門学生
タイトル = 中学校3年間を不登校(時々、保健室登校)
体験談 =

自分は、中学校の3年間、学校に余り行きませんでした。
行ったとしても保健室登校で、教室には滅多に行きませんでした。
そんな中学校生活で辛かった事は、給食があるということでした。
給食があるということは、クラスごとの人数分用意されているということで、保健室で食べようにも、誰かに持ってきてもらうか、自分で取りに行くか、それとも教室で食べるか、の3つから選ばなくてはいけませんでした。
自分は、誰とも会いたくない。食事なんか1食くらい食べなくても平気だと思っていたのですが、先生や校長先生は「教室で食べよう」と何度も言うので、何度か教室で食べたりしました。
でも、ある日、担任の先生に連れられて教室に行ったとき、自分の机とロッカーを見て言葉も出ませんでした。
机は他の人たちから、やや離されているし、机の中には飴玉の袋などのお菓子のゴミがいっぱい。ロッカーは、他人が堂々と物を入れている。
まるで自分など、このクラスに初めから存在しないような扱いでした。
そういう環境の中で、クラスメイトは笑って「元気だった?」と訊くので、悔しくて悔しくて泣きそうでした。
ある奴は、「あ、自分、おったんじゃ。ごめ~ん、気づかんかったわ~」と言いながらニヤニヤと馬鹿にした口調で言ってきたりしました。
そのとき、その教室に担任の先生が居なかったら、自分はその相手をぶん殴っていたと思います。でも、先生は出来る限りのことを精一杯してくれていた良い先生だったので、ただ無言でその場を去りました。
色々とあった辛い出来事の中で、一番辛かったことは、≪自分には何も出来ない。無力な人間だ≫と思わされた瞬間でした。
認めて、逃げることしか出来なくて。悔しいけれども言い返せない自分が、無力で腹立たしくて。何で自分が存在しているんだと叫んだことさえありました。
何度も自殺を考えては、その意志を上回る虚脱感に襲われ、ただただ呼吸をし、生きているだけの中学時代でした。

高校は、出席日数の問題で普通高校に行けず(というか、クラスメイトたちと同じ場所には行きたくなかっただけですが)、定時制高校へとはいり、今は短大ですが、大学に通っています。

今思うと、これだけの苦しさや辛さを味わったからこそ、人として、同年代よりは、確実に成長していると思います。
どんなに馬鹿でもいい。どんなにつまらない人間でもいい。
生きて、誰かにその人生を伝えるだけでも、物凄い存在価値があることなんだと思います。
人と人の出会いは、お互いの人生を変えてしまうほどの、強烈なものだってあります。だから、その経験を生かしたことをすることが出来たら、自分は生きてきた甲斐があった、と思えるはずです。
自分は、そう思いながら歳を取って死にたいと思っています。

高校中退してからの人生

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name = しゃと
分類 = 大学生・専門学生
タイトル = 高校中退してからの人生
体験談 =

僕は現在普通の人より数年遅れて大学に通ってる者です。
地方出身の僕は、16歳の時、高校の人間関係がうまく行かず、いつも自分で自分を騙して生活しているような状態になり、クラスメイトの心無い行動を見てどう接していけばいいか分らなくなり、一人の生徒をきっかけにイジメられるようになりました。
かつては仲良くしていた友達もイジメにくわわり、高校での居場所がなくなり、精神的にも参ってしまった僕は高校に行かなくなり、親にも相談し高校を通信制の高校へと編入しました。
通信高校へ編入はしたものの、通信制の雰囲気は独特なもので、週1の学校も面倒臭くなり行かなくなりました。
そのかわりに僕は中学時代の友達と毎日のように遊ぶようになりました。特に僕と同様に高校へ行かなくなった友達とは気も合い、居心地は本当にいいものでした。
それからは、アルバイト、友達との遊び、だけで毎日を過ごすようになりなす。夜遊びもひどくなり、警察にもよく補導され、親は心配から怒り、僕はそれに反発し、家にも無断で帰らない事も多くなりました。
そんな生活をやっていて当然卒業できるはずもなく、気がつけば普通なら高校を卒業する歳になっていました。知り合いがどこに就職、進学をしたなどの話しが耳に入ります。中退した友達もみな土木作業や清掃サービスで正社員になり僕はなんだか取り残されたような気持ちに駆られました。
職業案内所に初めて行き仕事を探しました。いいなと思える仕事があっても「高卒以上」という制限が多くあり、面接まで行けてもやはり高卒してないことで苦しい顔をされ、結局自分で職を見つける事はできませんでした。
高卒を目指し高校に久々に通い先生に相談するも、あと「最低3年」はかかると言われ、諦めてしまいます。
友達のコネで土木作業員の仕事に就くことになります。そのような職場で働くのはもちろん初めてでした。毎日、通勤で3時間はかかる現場に行かされ、作業仲間の暴言、暴力もあり、保険をかけてもいないのにかけているように装ったりして危険な現場での仕事をこなしました。
しかし、数ヶ月後、仕事を続けていくことが辛くなり、清掃業の友達からの誘いもあったため仕事を辞めます。
清掃業に移ったものの、不定期に入る仕事(例えば朝は4時から働いて、昼3時から再び働き、翌日は夜11時から働くなど)で生活リズムは狂い、危険な劇薬も使う仕事でだんだん味覚もおかしくなったりしました。
そのころ女の子と1年の交際が過ぎ、よく将来を考えるようになりなす。このまま行くと将来どうなるのだろう・・・と考える度に何も見えない将来から不安に駆られました。
以前からの職場の同僚の姿、辛そうに働き、給料の低さ、休暇の無さに嘆く、それが将来の自分なのだと認めたくなかったのかもしれません。また、そういった職場の若者は僕以外にもいっぱいいましたが、みんな将来の事を聞いても楽観していました。
正社員で働く同級生が、一日15時間以上労働しているのに、正社員だから固定給で働き、かつ休めば給料が減る実情も見て、僕は真剣にそういったことに悩むようになります。
悩んだ末、友達の反対を押し切り僕は仕事をまた辞めました。このままじゃ、将来はぜったい今と大して変わらないと実感したからです。辞める時、高卒認定を取ることを決意しました。もう19歳になったころでした。
以前からの友達から頻繁に電話やメールが入ります。たいていは、遊びの誘いのようで、僕はすべてを無視しました。友達は本当に付き合いも長くイイ奴ばかりでした。しかし、みんな傷をなめ合い、集団からはみ出すことを異様に毛嫌いする体制もありました。つまり、一緒にいても何も進展が無いのです。
それからは馬頭も浴びました。それでも、僕は心の中で「ごめん」と謝りながら、将来の自分を変えるため、「自分のため」だけに集中する環境を作りました。よく「ちゃんと事情を話せばみんなも僕の立場を理解して、邪魔はしないはずだ」と指摘を受けましたが、そんな生ぬるいことじゃ、僕の人生は変わらないと思いました。それは、過去の自分、友達の体制を振り返りそう判断するにいたったことでした。
それからは、親に頭を下げ、よく話し合い、頼みこんで高卒認定のため予備校に通うことにしました。地方でしたから予備校が少なく、特に高卒認定の専門のコースを備えた予備校も無く、大学進学の予備校の授業に期間限定で入ることしかできませんでした。
しかし、これが後あとで良くはたらいてくれたのですが・・・。
予備校に一念発起で通いました、高卒認定本番まで残り2ヶ月とちょっとだったという理由もありますが。僕の人生で「勉強」などしたことはなく、アルファベットも忘れている絶望的状態でした。
2ヶ月後まで必死にがむしゃらに勉強して、高卒認定本番、2日にわたり11科目を受験しました。予備校も終わりました。しかし、僕は結果が出る一か月後まで、ずっと考えていました。以前のような職場にも高卒のひとがいる。というより、高卒の人の方が多かった。職案でも、高卒で就ける仕事もやはりあまりそれまでの仕事と変わりがない。
大学に行かないと、まともな職業ってないのかな・・・と思うようになりました。職業を差別するなんて気はありませんでした、どの職業だって世の中に必要だと教わってきました。しかし、僕は劣悪な環境で働き、たとえ必要とされる仕事でもハッキリ「そんな仕事していきたくない」と感じていました。
大学まで行かなきゃまた、以前のようなことを繰り返すそんな気がしました。
一か月後、高卒認定は無事すべて合格していました。それと同時に再び予備校に行くことを親と予備校の先生に頼みました。
晴れて正式な浪人生となり予備校び通いだしました。
それからも勉強にがむしゃらに取組みました。予備校に通い道で、かつての遊び友達に偶然会うこともありました。絡んできたので、事情を話すもしつこく遊びに誘い、少しだけ心を許せば、その後も遊び連れまわされたり、休日になるとしつこく「みんな居るから遊びに来い」だの言って来て、電話で今の僕の事情を話すも、ふざけ半分に返事をされ、誘いを辞めませんでした。その時、僕はスッパリと縁を切る事を決意し、再び完全無視の状態を作りました。「友達を大切にしよう」と教えてくれた先生方は悲しむことだろうと思いましたが、「自分と自分の家族、つきあっている彼女との将来のため」それだけを考えて勉強に励みはした。
予備校での友達もできました。歳では後輩にあたる者ばかりでしたが、何の気兼ねもなく話せ、中には高卒認定から大学を目指すという同じ境遇の者もいました。
最初の模試での偏差値は「38」。結構勉強したのですがこれが現実、なかなか伸びません。しかし、逆にいえば、高卒認定とはこの程度のレベルで受かることが可能なのです。
なかなか上がらない偏差値や、どんどん進む勉強に苦しみながらも、友達と励まし合いながら勉強を続け、受験前には偏差値は三教科で「68」まで上がりました。残念ながら五教科では不利になるため、国公立の進学は諦めました。しかし、「ここまでの伸びは異常だ」と先生達に言わせるほどの成長で確実に大学に行ける希望を手にいれました。
そして今までには絶対に行けもしないだろうから考えもしなかった有名大学を受験することができ、受験を終え・・・
実際にそのうちから、複数の合格を得ることができました。
そのころには、もう20歳になっていました。勉強する以前は、何かを変えたくて家出をし、遠くに旅に出たり、みんなが高校生をやっている時にバイクを手にいれ、いつも遠くにふらっと行ったりした経験もしましたが、人生を変えると言って実際には勉強しかしませんでしたが、今思っても、勉強が一番に僕を、僕の人生を変えたと確信できます。

若い時は悩むものです。何が必要なのか、なんのために学校へ行くのか、何の目標もなく過ごしている人は多いはずです。
今でこそ、普通に大学生をしている僕も、やはり経験できなかった楽しい普通の高校生活を過ごせなかったことを悔いに思ってはいます。
だから、むやみに高校を辞めたりすることは勧めません。しかし、高校へ行くことが苦しみでしかないというならば、辞めるべきだろうと思います。
高卒への道は決して一つではありません。僕のようにさんざん道から外れても、ちゃんとした大学に通うことだってできるんです。
単になんとなく高校を卒業したという人(たとえ県有数の進学校卒の人でも)は今でも、地に足がつかないようで、もくもくとフリーターを続ける人は実際に多く感じます。
そういう意味では、高校を辞めつことは様々な現状にふれ、悩み、目的を持って勉強なりにとりくむチャンスでもあります。でも、やはり僕からはあまりお勧めはできません。その辛さを知ってますから。普通にそんなことを知らずに育ち、社会に出た方がきっと幸せです。
僕の場合はどれだけ僕が非行な状態になろうとも、親は見捨てませんでした。だから、いつも親には心を開くことができました。大事なことは、どれだけ、道を外れようと見捨てず、本当にダメなことはダメと諫めてあげて下さい。厄介に思われようとも、よかれと思われる道をいつも提示してあげてください。
ただ反発したいだけで、話しを聞かないような状態だってあるんです。そんな態度をしていても、心の中じゃ、何をしたらいいのかどうすればいいのか分らず悩み苦しんでいるんです。だから、辛いでしょうが、親はいつも道を教えてあげなければ、子供は苦しむ一方なんです。親に見捨てられた子供は可哀そうなものです、心を開ける場所が帰る場所じゃないという友達が何人もいました。将来への道をどうしたらいいかなんて提示してくれる友達なんて、まずいませんよ。
結局、そういう友達は裏社会の仕事に携わるようになっていきました。

どうなっても、子供を見捨てはしないでください。そして、僕のような道を歩むことになる、今歩んでいる子供がいるならば、どうか友達ではなく親を一番に信頼してほしい。学歴で苦しむようなら、すぐに勉強を開始するべきです。若い時の投資は将来できっと何十倍にもなってかえってきます。苦しいでしょうが、頑張ってほしいです。

name = なこ
分類 = 大学生・専門学生
タイトル = 高校2年時に鬱・不登校・通信制へ転校。
体験談 =

こんにちは。
不登校になってしまった人たちへ、何か自分は出来ることはないかとWebを検索していたら此処へたどり着きました。
初めて利用させていただきます。


私は、鹿児島県の小さい学校で育ちました。

2クラスしかなく、全員幼馴染という環境です。


昔からの狭い付き合い、うわさはすぐに広まる、他人と違う行動をとれば悪目立ちをするなど、
友達とうまくやっていくには自分の感情を押し殺して

誰からも嫌われないようにしていました。


それが積もり積もって、高校2年生の時にうつ病の本を読んで自覚しました。

親に打ち明け、通信教育に転校。


病院に通い鬱が酷くなって一時は寝たきりになりました。


リストカットもしていたし、とても悲惨な心境で死にたい、死にたいと考えた時期もありました。


しかし、そんなとき親が私を守ってくれました。

大丈夫だから、今はゆっくり休養が必要なんだよ。

と、母や父が励ましてくれました。


鬱で自分が分からず、家族の「愛している」という言葉ですら全く信じることがませんでした。


夜に眠れず暴れだしたり、過呼吸になったりわめいたりと大変な日々を送りましたが、今ではこうして東京に出てきて専門学校に通っています。


東京に出て来て、大きな環境の違いに苦しくなり専門学校もやめてしまわざるを得ないのかも、と考えた時もありました。が、今では元気に登校しています。

人は、どんなことにでも慣れてしまうから驚きです。

中学・高校と思い返せば辛いことばかりでしたが、

その中で生き抜いた私は「家族の温かさ」を再確認することができました。

今では、病気で苦しんだ日々のことを父も母も、

「あってよかった、あの時のことがあったからこんなに絆が深まったんだ」


といってくれます。

わたしも、鬱を乗り越えたということで鬱の人の気持ちを理解できるようになりました。


人間として、1まわりも2まわりも大きく構えることができるようになったと感じています。

学校に行けない人、


学校に行けない子供を持っている親御さん、

めげないでください。

希望をもって下さい。


いつか、何かしら事は流れていくと思います。


結果的に、何かを得ることができると私は思います。


きつくても、辛くてもお互い支えあっていってください。

不登校の自分の子供を、どうか責めたりなど絶対にしないで

あたたかい深い心で、「愛しているということ、必要としているということ」


を、伝えてあげてください。

name = ゆきだるも
分類 = 大学生・専門学生
タイトル = 小学校から高校まで不登校を繰り返し・・・
体験談 =

私は親の転勤の関係で転校を繰り返しました。小学校だけでも5回ぐらいしました。でも、最後の小学校で「いじめ」にあいました。
始めは周りとうまく合わなくて「暗い子」と思われたのがきっかけでした。その後、足の一番速い子を追い向かしたせいでよけいにひどくなりました。「ばい菌扱い」「ボールを投げられたり」とても、つらかったです。それまで明るかったけど性格も暗くなってしまいました。自殺も考えたし、拒食症にもなったし、精神科にも行きました。一番私がこたえたのは父から「おまえが悪いからいじめにあうんだ。俺が殴れば学校行くならいくらでも殴るぞ」と言われ学校に行かない事に対して毎日酒を飲んで暴力を振られた事です。本当に辛かったです・・・
それから、人を信じられなくてとても辛く高校まで不登校を繰り返し繰り返してしまう逃げ癖がついてしまいました。

「人を信じる」当たり前の事ができなくとても辛かったです。いまも多少ありますが、ある人が「●●は悪くないよ。」と言ってくれたおかげで今は少しは人を信じることができるようになりました。

不登校をしているお子さんがいる親御さんは
その子を責めないであげてください。心が疲れているから「休み」たいんです。「お前が悪いから」とか言わず、ただそばにいてあげてください。
それが一番だと思います。子供も馬鹿ではないので「休む事」が悪いぐらいは分かるんですよ。

name = トリ
分類 = 大学生・専門学生
タイトル = 高校1年生の春に不登校になり、その後中退。
体験談 =

私は愛知県在住です。
中学卒業後、地元の進学校に進学しました。
入って1ヶ月、どうしても学校になじめず不登校になってしまいました。
さほど成績も悪かったわけではなく、いじめを受けていたわけではないのですが、どうしても学校に行くことが耐えられませんでした。

学校にいかなきゃ人生終わってしまう・・・

その思いでがんじがらめになり、パニック状態に陥り、家庭内暴力に近い事をしてしまい家族には大変迷惑をかけてしまいました。
保健室通いをしてみたり、担任の先生と何度も面談したり、カウンセリングに行ったり、いろいろしてみたのですが、結局最初の中間テストを終えて以来、学校に通えませんでした。
夏休み明けなら馴染めるだろうといわれ、一日だけ行ってみましたが馴染めるわけもなく、その後一回もその高校に行くことはありませんでした。

通っていない間、家では映画を見たり、本を読んで過ごしたり、母や父と出かけたりする日々が続きました。
みんなは普通に学校に通うことができているのに、私だけ通えないと思いから自信をなくし、友達とも接するのが辛くて、連絡を取ることをやめてしまいました。
今、思うととても孤独な期間だったと思います。
しかし、両親にはとても支えてもらってるということを改めて実感した時期でもありました。

その間、高校に行きなおそうという思いだけは持ち続けていたので、ふとインターネットで見つけたある高校に興味を持ちました。
その高校は単位制中間定時制で、ゆっくり自分のペースで勉強できるという高校でした。
また、中学のとき不登校だった子や、私の様に高校を中退してきた子なども多くいると聞き、そこを受験してみようと決心しました。

3年後、私は無事その高校を合格、卒業し、現在大学4年生です。
高校に入ってからも辛いことや、投げたしたくなってしまうこともたくさんありましたが、その高校では乗り越えてくることができました。

中学や高校に行けなくなってしまうことは決してその子のせいではないと私は思っています。
また、甘えているわけでもありません。
学校に行けなくなったらゆっくり休んでみるのもいいんじゃないでしょうか。
学校に行く気が出るまで待ってみてもいいんじゃないでしょうか。
学校でなくても新しく仕事を始めてみるのもいいかもしれません。
環境を変えてみるのも一つの手段だと思います。
新しい環境で、知らない人ばかりの中に入っていくことは大変ですが、今までの自分のイメージが周りにない分、私は楽でした。

みんな、好きで不登校になっているわけではありません。
けれど、学校に行けなくたって人生終わるわけではありません。
私は不登校になったことで、2回目の高校でたくさんのいい先生や友達に出会えました。
不登校になってしまったことを後悔はしていません。


ただ、不登校になり学んだことは、

「つらい事は声に出して人に言う!」


不登校になっているみなさんの周りにはたくさん支えてくれている人がいるはずです。
両親でも、先生でも、兄弟でも、友達でも、恋人でも・・・誰でもいいです。
自分が何に対してつらいのか、苦しいのか、我慢できないのか、人に対して言葉にして発することでずいぶん違います。
自分ひとりの中で考えていてもまとまらなかった事が、まとまり、何に対してどういう思いなのかということがわかるだけでもずいぶん落ち着くと思います。
弱音を吐いたり、相談したりすることは決して恥ずかしいことではありません。
保護者の方は子供が甘えているから学校に通えないと思うのではなく、休憩期間だと思って、ゆっくりさせて、話を聞いてあげてください。

時間のかかることで、不安に思うこともたくさんあると思います。
けど、親の不安を子供は敏感に感じ取ります。
「何とかなる」とどんと構えて、子供の話をしっかり聞いてあげること、これが一番なのではないのかな、と私は思います。

高校を中退

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name = 匿名希望
分類 = 大学生・専門学生
タイトル = 高校を中退
体験談 =

 私は現在音楽大学でフルートを専攻しています。
 中学生のときにフルートと出会い、将来は音楽を職業にしたいという夢を持つようになりました。しかしわたしは私立の学校に通っていたため、金銭的なこともあって親から反対されてしまい、それならと思い切って中学3年のときに私立中学を辞めて地元の中学校に転校しました。どうしてもフルートをやりたかったのです。音楽なんてやったこともなくて未知の領域であったにかかわらず、母は嫌な顔せず応援してくれました。すごく感動しました。今でも本当に感謝しています。学校を辞めた際におりる学校債を使って楽器も買ってもらいました。
 しかし転校した中学は地元でも荒れていることで知られていたので、とても不安でした。案の定、前の学校とのギャップが激しくてなかなか馴染めませんでした。はじめたばかりのフルートも、先生に怒られてばかりでいつも泣いていました。なにか見るたびに前の中学の楽しかったことが思い起こされ泣いていました。
 しかしいつまでもぐずぐずしてはいれない...みんなと仲良くなりたいと思っても、怖くてなかなか話しかけることができなくて教室でいつも一人でいました。
 そのうち、「あいつは私立から来たからうちらのことを見下してるんだ」と言われるようになりました。発端は、あと一年しかいないから制服を貸して下さるということだったのですが、なぜかスカートの在庫が学校になかったので急遽買う事になり、出来上がるまで仕方なく前の中学の制服で登校していたからです。先生までもが一緒になってそんなことを言っていました。だんだん陰口だけではなくなり、しまいには机の足を折られたり、物を投げられたり、タバコの火を押し付けられたりして、学校に行けなくなりました。学校が怖くてアレルギーでもないのに蕁麻疹が体中に出たこともありました。
 ある日フルートの先生に「すごく寂しい音がする」と言われたことがありました。たしかに寂しかったけど、こんなに家族が応援してくれてるのに心配かけたくなくて、誰にも学校であったことを相談できませんでした。
 こんな1年間なんとか耐えることができたのは、やはり夢があったからだと思います。早く中学を終えて、高校は東京の音楽高校へ進学するんだと余計に強く思う事が出来ましたから!笑
 高校は晴れて音楽科に進む事が出来ました。友達も出来て今までが嘘みたいで本当に嬉しかった。同じ夢があるから同じ話に興味があったりして、毎日楽しかったです。
 しかし音楽科の先生達から、君は演奏家に向いていないと何度も言われるようになりました。音楽科の先生といってもフルートの先生ではありません。そのころはコンクールにたくさん挑戦していて頑張っているつもりだったので、ショックでした。まだ音楽の世界に慣れていなかったこともありなんとなく自信が無い状態だったので、ガックリきてしまいました。
 そのうち、先生たちはただ私を馬鹿にしたいだけなんだという事に気づきました。ある日、職員室に鍵を掛けた状態の中、先生全員が私に詰め寄るという日もありました。1時間以上密閉された部屋で、だれも味方がいませんでした。学校にまた行けなくなりました。大人を信じることができなくなり、人と話すことも難しくなってしまいました。
 ついに高校3年のときに学校を辞めてしまいました。耐えられませんでした。非常に気落ちしていたので、フルートを辞めてしまおうかとも本気で考えました。
 しかし吹いている瞬間というのはたとえどんな状況であっても楽しいものです。フルートを吹いている時だけは、わたしは音楽を通して自由自在に言葉を発することが出来ました。そのことに気づき、一度挫折したくらいでこんな素敵なことを辞めるなんてもったいないと思いました。そしてフルートを続けたくて、通信制の高校に行って高認を取って音楽大学に入りました。
 そんな時も母はわたしの事を信じてくれました。好きな事があってそれを本当に応援してくれる人がいて、すごく幸せに感じました。
 今はとても充実しています。過去があるから、それまで分からなかった人の気持ちなどを敏感に感じることができるようになって、結果的に音楽に繋がっていくことが出来るんじゃないかと思っています。だから「今」は全然無駄じゃない。まだ全然上手いとはいきませんが、だからこそまだまだ上手くなりたいという夢があってワクワクします。夢って大切です。夢があれば何でも乗り越えられるというのは、まんざら嘘じゃないと思います。

name = 一時(ひととき)
分類 = 大学生・専門学生
タイトル = 11歳からの不登校 それからの11年
体験談 =

教師と両親、大人からの二重の支配が私を苦しめたのは、小学校6年の頃。3月生まれの私は、当時11歳でした。以下は、私の体験談です。

 担任はひどい大人で、子供を見下し、馬鹿にしていた。宿題や授業の中で、問題を間違えればクラス中の前でその生徒は罵られた。体系に特徴のある生徒は、デブ、メガネザル、チビ、などと呼ばれ、泣きながら帰る子も多かった。なぜこんな大人が教師になれるのか? 私には全く教育の在り方が理解できなかった。
 私は背が高く、ませていた。本を読み、戦争問題を当時から考え、正義感が強く人と群れなかった。だから担任のやり方に反抗し、目を付けられた。姓を呼び捨てにされ、口汚い言葉で罵られ、机ごと廊下へ放り出される事もあった。家で事情があっても、帰る事を許されなかった。
 親に訴えたが、親は私が我侭を言っていると受け止め、私をランドセルごと家から放り出した。逃げ場は、もうなかった。
 カッターナイフを手にするようになった。自分の腕を切った。その血で担任と親への怨嗟をノートに書いた。
 切り辛いので剃刀を使うようになった。日に日に、回数が増えた。一日に100本以上の傷がついた。涙はもう出なかった。泣く事も、笑う事も忘れた。怒りと憎悪だけが私を支えた。食事も睡眠もろくに取らず、身体はボロボロになった。今日でも、自律神経失調や臓器系の発育不足などが残る。
 私の、血膿と瘡蓋で手甲を巻いたように変色した腕を見て、親はやっと私を休ませるようになった。だがあまりにも遅すぎた。
 自殺未遂を2回。血が止まってしまい失敗した事と、赤く染まった腕、血だまりの出来た畳を覚えている。
 中学は、3年のうち4日しか通っていない。校長に掛け合い、証書は特例で出され留年はしなかった。その間も、自傷が止まなかった。だが夢があり、ずっとその為に独学で勉強を続けた。
 16歳で定時制高校の試験を通過。人との付き合い方を忘れた私の居られる場所ではなかった。中途退学。また自傷が悪化する。
 その後2年間は、自分の夢のために学業を休み、その道に専念した。
 19歳で、もう一度きちんと勉強したいという思いから通信制の高校へ入学。その間も家族で過去のことに関し、10年の間話し合いを続けた。そして、両親を許す事ができた。自傷も終わった。
 21歳で通信制高校を卒業。および在学3年の時進学を決意、入試に挑み合格。そのまま今年度、大学へ進学した。
 今、とても充実した毎日を送っている。自由に笑えるし、泣ける。私は自由だ――。

 一番辛かった時、親と私を殺さなくて良かった。それが私の学びです。
 親が生きて目の前に居たからこそ、憎む事も出来たし罵る事も出来たのです。だから私は自分を許せたし、そして親を許す事も出来ました。憎む相手が居なくては、そしてその相手が答えてくれなくては、乗り越えられない苦しみがあるのですね...。
 また、自殺を試みた時、死の恐ろしさを知りました。死は、私のこれ程の苦しみを以ってしても、太刀打ち出来ない程恐ろしいものでした。剃刀一枚の薄さの境界線の向こうに、私の死は在りました。ですが、その薄さを越える事は、正気の沙汰ではなかったのです。まさに、それは The Sin Red Line――正気と狂気の境界にある一本の赤い線――でした。私は狂う程にはまだ至らなかった、だから生き長らえる事が出来たのです...。

今、苦しみの最中にいる人達に贈りたい。
あなたの苦しみは永遠ではない。 必 ず 終わる日がくる。
あなたには見えている筈。あなたは闇の中に居て、その暗闇の中に浮かぶ一本の赤い線が。
けれど、越えてはいけない。その線だけは。
あなたの未来は、決してその線の向こうには無い。
あなたは、どんなに立ち止まっても曲がりくねっても、時には倒れこんでも、必ずもっと明るい光の下で自分の夢の為に生きている。
それがあなたの未来。
あなたには「翼」があるのだから。飛びたいと思えばいつでも空を飛べる。
どこへでも行ける。
今は、飛び方を忘れてしまっただけ。翼の広げ方を忘れてしまっただけ。

あなたは、幸せになる為に生まれてきた。
あなたを幸せにするのは、親やあなたを苦しめる人達ではない。
あなたが幸せになりたいと思えば、それで世界は変わる。
あなた以外の何者にも、あなたは負けやしない。一番手ごわい敵は、いつも自分の中に居る。
死は、あなたの全てを奪い取って無に還してしまうだけで、あなたを自由になどしてくれない。

生きて。
生きて生きて生きて。

幸せになりなさい。
あなたを幸せにしてあげなさい。
未来で輝いて生きている、あなたに会いに行きなさい。

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